ザ・ストレス

新型コロナウイルス感染拡大の騒ぎをうけて、先週頭から在宅ワークをすることになりました。
出勤する場合は前日だかまでに上司の許可が必要で、出勤には極力公共交通機関を使用しないようにとのことなので、ほぼ出勤禁止令に近いものだと解釈しています。

そんなわけなので、自宅でメールしたり、WordやExcelでファイルを作ったり、テレビ会議システムでミーティングをしたりしているのですが、在宅ワークが始まって1週間でもう嫌になりました。
嫌だ嫌だとただ言っていても状況は絶対によくならないので、何が嫌なのかをちょっとアセスメント(ナウい横文字)してみたのですが、つきつめると「寝たり遊んだりする空間と仕事をする空間が同一であること」が嫌なのだろうという結論に達しました。

私の部屋は1Kで、21平米弱しかありません。広さを犠牲にして、東京23区の駅近で、宅配ボックスや浴室乾燥機や敷地内ゴミ置き場があるなど、設備面が充実している部屋を選びました。
この部屋に住みはじめたのは学生のころだったので、通学と最低限の自宅での学習ができればそんなに不便はなかったですし、就職したあとも仕事は仕事場ですれば良い話なので、とくに不自由は感じていませんでした。

それが、急にここへ来て自宅で仕事をすることになりまして。私の部屋は仕事で使う資料もあり、自分の趣味のCDやら本やらもあり、ほぼ要塞みたいな状況なのですが、まず仕事がスムーズにできるようにとちょっと部屋を片づけたら、15年前に借りパクした美○明宏さんのCDが出てくるなどしてメンタルをやられるなどしました。

で、ベッドの横にくっつく形で置いてあるデスクでノートパソコンを開いて仕事をしているわけなのですが、寝ているときの体の位置と仕事をしているときの体の位置が20cmくらいしか離れていないんですよね。WaTの「5センチ。」の「5センチだって離れていたくない…」と願う「君」ですら状況が整えば妥協しそうな距離です。それで朝起きて、「さあ、仕事を始めるぞ!」という気分になるほうがおかしいと思います。せめてもの抵抗として、朝起きて仕事着に着替えているのですが、スーファミの「ミッキーとミニー マジカルアドベンチャー2」みたいに着替えたら性能が変わるならまだしも、自室で寝間着の36歳と自室で仕事着の36歳、びっくりするくらい性能が同じです。初代スト2のリュウとケンくらいの差。

そんなわけで、いちおう仕事用のノートパソコンを開いてはいつつ、ニュースやワイドショーを見たり、広瀬○美のYouTubeを見たり、ニコニコ動画の広瀬○美の動画を見たりしながら、何もかもはかどらない日々を送っています。しぜんと夜遅くまでだらだら働くはめになり、私自身なんの得もしない日々。

これを書いているのは4月5日夜ですが、「あの頃は大変だったけど、思ったより騒ぎが早く収束してよかった」と言える日がいつか来ることを願っています。

ナショナルメディアボーイズ

隠しているわけでもないのですが、積極的に開示したいわけでもないという、満島ひかりにおけるFolder 5時代くらいのエピソードだと受けとっていただきたいのですが、私はけっこうな田舎で育ちました。
私は父の仕事の都合で、小学5年生でけっこうな田舎から東京の23区内に引っ越してきました。199X年の4月頭、生まれて初めて新幹線に乗って東京に出てきて、東京駅で中央線に乗り換えて、車窓から見える景色がずーっと見たこともないクラスの都会だったので、これはえらいところに来てしまったものだと思いました。

当時小学生なので、けっこうな田舎と東京のドラスティックな差は、「住むところが変わったのだから生活が変わるのは当然」と思っていたのですが、大人になってそこそこ出張に出かけることの多い仕事をするようになり、「私が育ったのはけっこうな田舎だったんだ」と思うようになりました。10段階評価で1をもっとも田舎、10をもっとも都会とすると、たぶん2か3くらいの田舎だと思います。
実家から小学校まで子供の足で20分くらいなのですが、その道中、信号機が1つもありませんでした。離島なんかにお住まいの方がテレビで「子供に信号機というものの存在を教えるために、島内に1か所だけ必要ないけど信号機があるんですよ〜」と言っているのをときどき目にしますが、そういう風に信号機を知るのも、普段歩いたり自転車をこいだりするのに信号機を使わないのもどっこいどっこいな気がします。私としては必要がないのに教育的配慮で信号機が設置されているほうが田舎だと思いますが、たぶん都会の方から見たら「国生さゆりが、新田恵利のテレホンカードより自分のテレホンカードのほうが高値がついていると知って喜んでいた」みたいな話だと思います。
あと、前に東京出身の方に言ってドン退きされたのであまり言わないほうが良いのかもしれませんが実家はくみとり式のトイレでした。落ちたことはないですが、人生で2回、片足がはまってスリッパを犠牲にしたことがあります。バキュームカーのホースがスリッパで詰まったりしなかったのかしら。くみとり式トイレで育ったので、今東京で目にするトイレは基本的に全部衛生的できれいなトイレに見えるという利点があります。
彼氏と千葉県の郊外の方に旅行に行ったとき、彼氏が民家の住所プレートか何かを見て、「5ケタの番地初めて見た。5ケタってなくない?」と言っていました。実家の番地は5ケタでした。確かに東京で5ケタの番地見ないですね。彼氏の目には数百階建てのマンションに住んでいる人みたいに見えるのでしょうか。

実家の近くには、子供向けのアミューズメントがまったくありませんでした。公園も、図書館も、駄菓子屋も、コンビニも、本屋や古本屋も、子供の行動圏内にはありませんでした。
公園、なかったんですよね。遊具は小学校の校庭にあるだけでした。図書館も車で15分くらい走ったところにある市役所の近くにしかなくて、月1回?くらい、本を積んだ移動図書館(たぶん都会にお住まいの方がご存じない概念)が近くの公民館まで来ていました。駄菓子屋もなくて、手に入るお菓子はスーパーのお菓子売り場に並んでいるものだけでした。今でこそいわゆる駄菓子もけっこうスーパーに並んでいますが、その当時スーパーで買える駄菓子はうまい棒チロルチョコとマルカワのガムくらいだったような記憶があります。コンビニや本屋も、親や祖父母に車に乗せてもらって連れていかれるところでした。

子供向けのアミューズメントが家の近くになく、そもそも家の配置もまばらなので地区内に遊び相手になる友達もおらず、小学4年生になるまでテレビゲームも買ってもらえなかったので、家にいるときはテレビばかり見ていました。
私の実家のある県は、ふつうに見られるテレビ局の数が日本一多い県なんですよね。NHK総合Eテレ(私はヤングなので『NHK教育』とは言いません)、日テレ系、TBS系、フジ系、テレ朝系、テレ東系(このアナログ放送時代のチャンネル番号にもとづいたテレビ局の並べかたはヤングじゃないかもしれません)に加えて、それらとは別に県のローカル局がありました。MXが開局するまで、東京よりもテレビ局の数が多かったはずです。
それで、何を熱心に見ていたかというと、正確な年までは覚えていないのですが、1990年代初頭、毎日(たぶん)夕方ごろにやっていた(はずの)「シティーハンター」「シティーハンター2」「シティーハンター3」「シティーハンター '91」の再放送を見ていました。「シティーハンター」の本放送は1987年〜1988年だそうなので、1987年から1991年までの4年くらいかけて放映されたものを、毎日見られるというぜいたくな環境でした。みなさんご存じの通り、「シティーハンター」のエンディングテーマがTM NETWORKの「Get Wild」、「シティーハンター2」のエンディングテーマがTM NETWORKの「STILL LOVE HER(失われた風景)」、「シティーハンター3」のオープニングテーマが小室哲哉の「RUNNING TO HORIZON」で、小室哲哉の洗礼をこのときに浴び、今に至っています。初めて買ってもらったCDが「シティーハンター ドラマティックマスター」という主題歌・挿入歌を集めた企画アルバムで、初めておこづかいで買ったCDはTMNのシングル「WILD HEAVEN」でした。「WILD HEAVEN」の発売が1991年の11月だそうなので、さきの再放送が「1990年代初頭」という記憶と合致しそうです。その当時の小室哲哉は本当にかっこよかったです。1990年代半ば〜後半のTKブームで小室哲哉を知った方は、TM NETWORKを聴いていない方も多いと思いますが、TM NETWORKの「TIME TO COUNT DOWN」のイントロだけでも聴いてみてください。ドヤ顔でシンセサイザーのツマミをクリクリしたりしない小室さんはほんとうにかっこいいです。

https://www.youtube.com/watch?v=9IQwqb3ryAA

あとは今思うと何が魅力だったのか自分でもよくわからないのですが、逸見政孝さんの出ている番組をものすごい頻度で見ていた気がします。が、Wikipediaを見るとたぶん「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」と「たけし・逸見の平成教育委員会」くらいしか見てないっぽいです。こうして記憶というのは捏ねられるんですね。逸見さんは1993年末に亡くなっているので、今の若い方はご存じないと思いますが、元局アナがゴールデンタイムの番組の司会をガンガン務めているという、今のフリーアナウンサーの活躍とはひと味違う活躍のしかただったように思います。

その後、小学4年生のときにスーパーファミコンを買ってもらって、小学5年生で東京に引っ越して、自分をとりまく環境も自分自身もコペルニクス的転回(一度言ってみたかったワード)をみせるのですが、それは別稿に譲りたい(一度言ってみたかったワード)と思います。

はみがきじょうずかな

2020年2月、ブログを始めることにしました。

まだ20世紀だった時代(!)、geocities(!)の個人サイト(!)でウェブ日記(!)を書いていたことはあるのですが、ブログサービスを使って日記を書くのは初めてです。

なぜこのタイミングかというと、この間au PAYの30,000ポイント還元を使って、メモリもストレージも盛り盛りのゴキゲンなMacBook Airを買って、それまでのメモリ4GBのMacBook ProでむりやりmacOS Mojaveを動かしていた時分と違って、ストレスなくいろいろできるようになったからです。

2013年くらいには「ザ・インタビューズ」という母音の前の定冠詞の発音が怪しいサービスを使ってそこそこ長い文章を書いていたのですが、ザ・インタビューズが過去ログをすべて吹っ飛ばす形でサービス終了して長いこと経って、仕事に関係ない文章を書くことが恋しくなったというのもあります。

 

さて、本題です。

今日、歯が痛くて歯医者に行きました。

ちょっと前から奥歯が痛かったんですが、まあ耐えられないこともない痛みだったのと、ここ数年であきらかに歯茎がやせて歯の露出している面積が増えて、知覚過敏(高橋メアリージュン(メリージェーン(つのだ☆ひろ)とは関係ない))かなーなんて思っていたんです。上戸彩が歯茎がやせて出てきた部分は虫歯リスクが高いって言ってましたし、敏感でもおかしくないなと。こういう時事ネタを文章に入れておくと、数年後読み返したときに楽しいと思います。

ところが今朝目が覚めたら、明らかに痛い。2月の冷たい水道水がちょっと信じられないくらいしみる。

私、痛みにはにぶいところがあるようで、2006年にはライブハウスの最前列でビジュアル系バンドを見たときに骨折していたんですが、なんか痛いなと思いながら1ヶ月くらい放置していたことがあります。その私が明らかに痛いと感じているので、これはまずいのではなかろうかと思い、仕事場から電話で家の近くの歯医者を予約して、仕事帰りに行ってきました。

 

まず歯科衛生士?の方が、口の中の写真を撮ってくれました。

実は私、歯が痛くて歯医者にかかるの、27年ぶりくらいなんですよね。大学生の時に顔をぶつけて歯が欠けたのと、あとは忘れたころに歯石をとってもらうくらいで四半世紀以上やってきました。今の歯医者さんは写真を撮って見せてくれるのかと少し驚きました。

写真を見せながら、「ひどい虫歯で歯が欠けて神経が露出している」と言われました。そういえば、写真を撮るときモーニング娘。の「サマーナイトタウン」のサビ終わりみたいなテンションで「AH〜」って言ってました。私が思うより事態は深刻だったみたいです。

虫歯…27年ぶりの虫歯…

これは声を大にして言いたいというか、Twitterにこのことを書かずにブログを書こうと思ったのはここから先のことをきちんと主張したかったからなのですが、私はそれなりに口腔ケアに気を使っているつもりだったんです。リステリンの紫(冠位十二階といっしょで紫がいちばんグレードが上)を使って、デンタルフロスと歯間ブラシを使って、ちょっといい歯磨き粉を使って、電動歯ブラシを使ってというような形で。

それが歯が欠けるほどのひどい虫歯にかかっているだなんて。ショックでした。川上麻衣子が自作の化粧水をテレビ番組で披露したら「雑菌が繁殖した、ただの汚い汁」と言われたときのショックに匹敵する(想像)と思います。

川上麻衣子が「汚い汁」を量産、美肌のためと自作した化粧水が…。 | Narinari.com

 

その後、歯科医師の先生にみていただいて、何回かかけて歯の神経を抜いていって、その後何回かかけて欠けた歯を形成するという治療の方針を説明していただきました。なんかストーリーが壮大で、戦いで大破したエヴァンゲリオンを再建するみたいなセリフを聞いているような気分でした。

どうも5年とかそれくらいかけて進行した虫歯という見立てのようで、「歯石とってもらうときに何も言われませんでした?」と聞かれました。何も言われませんでした。困るナ〜。

 

というわけで、しばらく歯医者さんに通うことになりました。

これにくさらず口腔ケアをがんばりたいと思います。